大村智記念学術館 開館記念 ノーベル賞受賞者 特別対談
~本音で語るノーベル賞への道~

 2015年にノーベル医学?生理学賞を受賞した山梨大学卒業生の大村智先生(山梨大学特別栄誉博士)の偉業をたたえるとともに、功績を末永く顕彰する「大村智記念学術館」が2018年7月19日、山梨大学华人策略中心论坛_华人策略网站-【中国科学院】&に創設されました。
 その完成を記念して、大村先生と、京都大学教授で2012年にノーベル医学?生理学賞を受賞した山中伸弥先生の特別対談が行われました。山梨大学の島田眞路学長が進行役となり、お2人が研究者の道へ進んだ経緯や研究の面白さ、ノーベル賞研究のきっかけなどについて語りました。

 完成記念式典の様子
 特別対談の様子

映像

講演録(各項目をクリックすると本文が表示されます)

  • ▼スポーツから学んだ「百折不撓」の精神

    • 島田学長 
       本日は大村先生と山中先生をお迎えしまして、このような機会をいただきましたこと、大変感謝しております。ノーベル医学?生理学賞というのは受賞するのが大変難しく、日本人でまだ4人しか受賞されておりません。最初は1987年の利根川進先生で、外国での仕事(免疫グロブリン遺伝子再構成)で受賞されました。2番目が山中先生が2012年にiPS細胞の発見という素晴らしいお仕事で受賞されました。3番目が2015年の大村先生がイベルメクチンの発見で、そして2016年に大隅良典先生が基本的な細胞のメカニズム?オートファジーの研究で受賞されております。大変誇らしい限りです。
       大村先生、山中先生お2人を拝見しておりますと、科学的な研究力はもちろん、洞察力、独創性、それがないとノーベル賞は取れないと思いますが、それ以外に我々と違う何かを持っていらっしゃると感じておりまして、それは総合的な人間力ではないかと考えております。今日はそういうところを先生方から引き出せれば幸いです。
       お2人のバックグラウンドを聞いていますと、学者家系に育たれたということはありませんよね。大村先生は山梨県韮崎市の農家のご出身で、高校まではスキーにご傾倒されていたそうですね。スポーツとノーベル賞は一見関係ないように思えますが、そういうところで人間力が磨かれたと拝察していますが、いかがでしょうか。

      大村博士 
       私にとってはスポーツとノーベル賞は、ものすごく関係があることです。高校時代からスポーツに明け暮れまして、山梨大学でもどちらかといえばスキーを熱心にしていました。その経験から人生でかけがえのない事柄を学ぶことができたと思います。私がやっていたクロスカントリーは非常に耐久力が求められる厳しいスポーツです。先ずレベルの高いところで練習し、さらにそのレベルを超えていくためには、独自のもの、先生などに教わったものだけではなく、自分のものを持ってやっていかなければならないことを学びました。スキーだけでなく研究も全く一緒です。何があってもくじけない、「百折不撓」ですね。これはまさに長距離のスキーで学んだと思っております。

      島田学長 
       大村先生は山梨県だけでなく、新潟県で日本を代表するスキーヤーであった横山先生の指導も受けられたということで、先生から「鼻水をふくな、それぐらいの余裕があるなら一歩前に出ろ」と言われたという話が大変印象に残っております。

      大村博士
       
       やはりいい先生に就かないとダメだというのは言えると思います。「正師」という言葉がありますが、私は正師に出会ってきています。スキーだけでなく、いろんな場面で本当に素晴らしい先生方に出会うことができました。

      島田学長 
       大村先生はいつも「一期一会」とおっしゃいますが、そのことがよくわかりますね。一方、山中先生はスポーツというと柔道、ラグビーをやってらっしゃったということですが、そのあたりについてはいかがですか。

      山中博士 
       まず、今日は大村先生の記念学術館の開館にご招待いただきまして非常に光栄です。ありがとうございます。私は学生時代に柔道とラグビーをかなり一生懸命にやっていました。2003年に人生で初めてCRESTという年間5000万円から1億円を5年間支給されるという、とても競争率の高い大型研究費をいただきました。その面接が岸本忠三先生という大阪大学元学長の本当に素晴らしいけれど怖い先生で、岸本先生の面接が人生で一番緊張しました。そこで岸本先生に「あんた、強みは何や」と言われ、「僕は柔道とラグビーをしていました、体力と根性はあります」と答えましたら、「そんなことは聞いてない」と言われました。結果としてはそれがよかったようで、CRESTに採用されて、iPS細胞の研究ができるようになりました。柔道とラグビーをやっていなければ研究生活を続けてこられなかった、そういう意味でもやっていてよかったと思いました。

      島田学長 
       スポーツはひとつの共通のものかと思いますが、その後お2人は大学に進まれますが、2人ともお父様から言われて、大村先生は「大学に行きたかったら行ってもいいよ」、山中先生は「医学部に入っては」と言われ、その道に入ったということですよね。そして大学卒業後に研究に入られたということですが、山中先生は医学部を卒業されて、スポーツ医学を目指されていたそうですね。

      山中博士 
       学生時代から自分がケガやスポーツ障害で苦しみましたので、そういうスポーツで怪我をした人を診られる整形外科を目指していました。それが学生時代のビジョンでした。

      島田学長 
       でも幸か不幸か、残念ながら手術はお上手ではなかったとか。

      山中博士 
       父親は本当に器用なエンジニアでしたが、私はどうもうまくいかなくて。人間の手術はもし何かあったら大変なことになると思うと緊張してしまって。でも動物実験はものすごく上手くて、そのおかげで研究者になりました。

      島田学長 
       先生が手術がお上手だったら整形外科の方で大成され、ノーベル賞はなかったということですかね。

      山中博士 
       自分ではそこまで下手ではなかったと密かに思っているんですがね。その時に指導してもらっていた尊敬する先生が、ノーベル賞受賞前後にテレビでインタビューされていまして、「下手でしたね」と言っていました。そのあと先生から電話がかかってきて、「すまん、すまん、下手と言うつもりはなかったけれど、そう言わないとテレビの人が帰ってくれんかったのだよ」と言っていました。

  • ▼勉強し直そうと思い、研究の道へ(大村博士)

    • 島田学長 
       大村先生は大学卒業後、高校の先生になろうとされましたが、山梨県で先生の職がなかったとお聞きしていますが。

      大村博士 
       昭和33年のころはとても不景気な時で、山梨では体育の先生しか募集していませんでした。それで県外の中学と高校の試験を受けたのですが、神奈川県の採用試験に落ち、北海道も落ち、一番難しい東京だけ何故か受かりました。私の人生でとてもラッキーなことでしたね。都立高の定時制に勤めまして、スキーばっかりやっていましたから、先生と言われるほどの力がないなと思っていた矢先のことです。近所の中小企業の工場で働いている生徒が、ある試験の時に油まみれの手で答案を書いているのを見て、本当にショックを受け、自分ももう一度勉強し直そうと思ったんです。
       まずは元の東京教育大の理学部の聴講生になり、そこで非常にいい先生、天然物化学の大家である中西香爾先生に出会い、1年間通いました。その後、中西先生の推薦があって東京理科大に入りました。今考えると、よく体がもったなと思います。理科大で昼は実験の準備をしたり講義を聞いたりして、夜は高校に教えに行き、さらに夜は東京工業試験所(現?産業技術総合研究所)でいろんな実験をさせてもらいました。
       実は理科大での修士は2年で終えるところを私は3年かかってしまっています。なぜかというと、与えられたひとつのテーマをきちっと研究したのですが、その研究内容をそっくり横浜国大の先生が発表してしまいまして、これでは修士論文にならないということで一年落第しました。それがよかったんです。なぜなら東京工業試験所に60MHzのNMRの第一号が入りまして、修士の学生でありながら夜中に使わせてもらいました。それがその後の研究生活にどれぐらい役にたったか。しかもおそらく天然物のNMRをとったのは日本では私が最初ではないかというぐらいの時期でした。
       その後、山梨に帰ってきて、ここでも坂口謹一郎先生という良い師に出会いましたが、いいところでそれぞれいい先生に出会っているのは幸せですね。坂口先生は「微生物に頼んで裏切られたことがない」という名言を言われていました。その後、北里研究所に入り微生物と化学の両方を扱う研究に携わりました。

      島田学長 
       大村先生はもし山梨で理科の先生になっていたら、どうなられていたかと思いますね。たまたま募集がなかったということですものね。

      大村博士 
       校長先生ぐらいにはなっていたかもしれませんね。でもマイナスが良かったということはあります。NMRとの出会いもまさにそうです。5年間高校の先生をしまして、山梨大で2年間、発酵化学の研究をして、その後北里研究所に移りました。私は新卒と同じ試験を受けて入りました。当時、北里研究所で発見された化合物は構造がひとつも分かっていませんでした。そして、みなさん寄ってたかって構造研究をしているのですが、成果が上がっていなかったんです。そこで私が落第して学んだNMRが生きてくるんです。みなさんが5年も6年もかけて構造研究しても決まらなかったものを、私は数カ月で決めていった。それで新卒扱いが一気に室長にしてくれたりして、研究ができるようになっていきました。あの時、修士をとんとんと終了していたら、こうはいかなかっただろうなと思います。

      島田学長 
       北里研究所での職は、最初は助手でもなく技術補佐員だったんですよね。

      大村博士 
       黒板ふきですよ。だから若い人も落第してもそんな心配することはありません。いいことがありますよ。

  • ▼「予想外」への好奇心から新しい研究へ(山中博士)

    • 島田学長 
       山中先生は大阪市立大学の薬理学教室に行き、ある血圧に関する実験で新しい発見をして認められていったということですが、いかがでしたか。

      山中博士 
       2年間、研修医として大学にいましたが、同じ医学部なのに全く別世界でした。研修医は毎日怒られて、本当に受け身で、言われたことをいかにこなすかが大切でした。でも大学院に入ったら何も教えてくれないんですよ。論文を読んで何をしたいか考えなさいと。夏まではそんな状況で、さらに大学院の指導教員の先生から「僕たちは人数は少ないかもしれないが、世界と競争している」と言われ、そこも全く違いました。研修医の時は世界と競争なんて思ったことがありませんでした。
       夏休みぐらいの最初の実験で予想と正反対のことが起こって、それを見た自分の反応に一番驚きました。ものすごく興奮して、好奇心が掻き立てられて、その瞬間に自分は研究者に向いていると思いました。そういう予想外のことが起きた時に困るタイプの人と、おもしろいと思うタイプがあります。どっちが良いという話ではなく、その人の性質だと思いますが、僕の場合は予想外のことが起こったことに驚いて興奮したんです。その大学院の最初の実験は、その後の僕の人生に影響したと思います。

      島田学長 
       それでいくつかよい論文を書かれて大学院を卒業され、その後は留学されているんですよね。

      山中博士 
       アメリカに留学しまして、留学先の先生の仮説を検証する実験をしたんですが、これがまた半端なく予想外のことが起こりました。そのボスはある遺伝子を研究していて、その遺伝子が動脈硬化を防ぐのに使えるのではないかという実験だったのですが、大村先生のように何万人、何億人を救おうと思っていたその遺伝子が、僕が調べると病気を治すどころか、癌をつくる発癌遺伝子だということが分かりました。ボスはがっかりでしたが、僕は何でこの動脈硬化に関係すると思った遺伝子が強烈な癌をつくるのかと思い、僕の研究がその実験結果に引きずられて変わっていって出会ったのがES細胞、そしてできたのがiPS細胞でした。

      島田学長 
       留学先で癌遺伝子APOBEC1を見つけ、そのターゲットとなるNAT1という新しい遺伝子を見つけられたんですね。

      山中博士 
       どうして癌が起こるのかという過程で、癌を抑制するのに大切だと思ったのがES細胞の万能性だと分かり、それで万能細胞の虜になりました。

      島田学長 
       やっぱり先生は何か持っておられますよね。普通のセオリーとは全く違う結果になり、そこからまた話が進んで行く感じですね。

      山中博士 
       僕の場合は最初の実験がそうだったのでラッ